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ジョー・バターン インタヴューアーカイヴ(2016年9月『Barakan Beat』)

先月、InterFM897『Barakan Beat』でお届けしたジョー・バターンの電話インタヴュー。放送をお聴きいただいた方は、そのマシンガン・トークに驚かれた方も多いはず。

70歳を超えてなお世界中を踊らせている「キング・オブ・ラテン・ソウル」誕生秘話から近況までたっぷりと語ってくれたジョー・バターンの貴重なインタヴューを特別公開します。

実に5年ぶり3度目となる今回の来日に期待が膨らみます!

世界を巡って見てみると、新しいファンたちは新世代の若いファンたちなんだから。どこからこの音楽がやってきたのかってみんな訊いてくる、「50年前からずっとあるぜ」って教えてやると目をまんまるくする。ステージ上の俺の姿を見ても、50年前にその音楽を始めた同一人物だって信じられないらしい。

ピーター・バラカン(以下PB): 近頃は積極的に音楽活動に打ち込んでいるの?

ジョー・バターン(以下JB): あぁ、世界中でね。今ちょうどスウェーデンから帰ったところで、イギリスのRonnie Scott's Jazz Club(ロンドン)でも、そしてフランスのパリでも演奏してきた。来週は中国にも行くんだ。

PB:へぇ!

JB:カリフォルニアには頻繁に演奏に行ってるし、コロンビアのボゴタにも最近行った。そしてもちろん地元のニューヨークでも年中ライヴをしてるよ。だから全盛期より今のジョー・バターンのほうが忙しいくらいさ(笑)。僕が過去60年に渡る活動で築いてきた歴史にみんながやっと追い付き始めたっていうか・・・。

PB:でもしばらくはほぼ引退してたというか、音楽活動からは長いあいだ離れていたんだよね?

JB:まぁ、やめたくて離れたわけじゃないんだけどね。仕事を見つけなくてはならなくなって、当時自分に唯一できることが、いわゆる「問題児」たちと関わっていくことかなって思ったんだ。自分自身が「問題児」だった過去を持つからね。そんなわけで青少年犯罪者の更生教育の現場に足を踏み入れて、いろんな若者たちを相手に仕事をし始めた。そこにかなりの充実感を見出して、それ以来人生が変わったよ。自分のまた違う側面にも巡り会えたし、ジョー・バターンが本気になればなんだってできるんだ、っていう自負も芽生えた。とは言え、「本気になればなんでもできる」っていうのは誰にだって当てはまること、って信じてるけどね。(問題児でも)アグレッシブで情熱たっぷりなら、引き止めるものは何もないはず。「自分にはあれがない、これもない」なんて言い訳は、僕たちだってするべきではないよね。本気でやろうとすれば、道は必ず見つかる。

PB:その通りですね。ちなみに、生まれは1942年だったっけ?

JB:正解!そうだよ。

PB:ってことは、いろんな面白い潮流が起きてた50年代の音楽を聴きながら育ったんだよね?もちろんロックンロールやマンボ、ドゥワップなどいろいろあったと思うけど、一番最初にインスパイアされたというか、ジョーを興奮させた音楽は何だった?

JB:まぁポップ・ミュージックだね。ブラック・ミュージックやラテン音楽といった、自分の民族の文化がラジオから流れることはめったになかったんだ。ラジオ局を経営していたのは白人層だったからね。チャートのトップ40が毎週流れて、それを聴いて当時のヒット曲に触れたんだ。まわりにTVを持ってる人はいなかったから、僕らの娯楽はほぼラジオのみだった。だからラジオは僕らの生活の重要な一部だった。あとジュークボックスもね。その頃の僕らのヒーローといえばフランク・シナトラやパティー・ペイジ、ナット・キング・コールやペリー・コモ、ジュディ・ガーランドといった歌い手たちだった。ジョージ・ガーシュウィンやコール・ポーターなんかがスコアを手がける映画もよく観に行ってたな。だからその当時の音楽とそのスタイルや創造性にかなりの影響を受けたんだ。いつも聴いた途端に、なんだかロマンチストのような気分にさせられる。自分の中にも「同じことをやりたい!」っていう気持ちが芽生えたんだ。当時は、教育も受けていない自分がどうすれば音楽の道を進むことができるのかなんて全く知りもしなかったけれど。

PB:観客を相手に音楽の演奏を実際にするようになったのはいつ?

JB:まだだいぶ若い頃さ。近所のヤツらを集めてドゥワップのグループをつくったんだ。ヒット曲を何万回と聴いたあとにね。最初はハモりだって何の知識もないから、がむしゃらに真似してみるだけだったけど、バリオ(スラム街)でずっと一緒に練習してるうちに偶然ハーモニーの法則を発見したんだ!誰も音楽の教育なんて受けてなかったから、耳だけを頼りに、試行錯誤の末にね。この発見以降、その法則はしばらく経つと僕らの中にしっかり根付いて、たとえ楽器がなくても歌を練習できるようになった。アカペラで「楽器がなくても音楽をやる」ための欠かせない要素の発見だったね。それで近所の路地裏や廊下の反響のいい場所を見つけてよく練習をしていたんだ。録音スタジオの「エコー・チェインバー」みたいな場所でね。そしたら聴きにやって来る人たちも現れた。その時の僕らの目標は「発掘されること」だった。もちろん、どうすれば誰かに認めてもらえるかなんて、まだほんの子供でなんの知識もないから、とにかくどういう方法であれ、いろんな人に観てもらえたなら、どこかで誰かが見つけてくれるだろうっていう考えだった。まるでシンデレラみたいな夢物語さ。だって当時は、黒人や少数民族の若者たちにとってのチャンスはさほど多くなかったからね。

PB:なるほど。そのグループとレコードを制作したことは?

JB:残念ながら無いね。そのグループはひとつのステップみたいなもので、みんなそれぞれの方向へ向かっていった。人をまとめ続けるのは大変な作業さ。特に自分のような野望に満ちたヤツが一緒だとね。友達にはよく「蒸気機関車みたいなドライブを持ってる」って言われてたよ。いつも成し遂げたいことがいくつもあって、一度にいろんなことに手を出しみる。それに若い頃は競走選手もしてたから、いつも全力で、しかも何事も速くスピーディーにこなしたがっていたんだ。意味もなく1日をだらだらと消耗する人たちのように、たわいもない会話をして無駄にする時間はなかった。自分にとって毎日はレースだったんだ。人生でなにかを成し遂げるためにね。まだその「なにか」は見つかってなかったけど。だからその「なにか」を目当てに、試行錯誤を繰り返して前に進んでいた。音楽も、自分が知っていた最適の方法で創り続けるしかなかった。その方法とは、時と場所を問わず歌えるヤツをストリートで見つけては、その場で一緒に歌うこと。だけど、音楽のつぼみがしっかりと膨らんだのは少年院に入ってからだった。そこで僕はマーク・フランシスっていうジュリアード卒の音楽教師の指導下にいた。彼が音楽理論や音楽の神秘を教えてくれた。彼は、理論を本で学んでからじゃないと楽器に触らさせてはくれなかった。それまでに知った沢山の知識の破片を、僕はそこで初めて、本からの理論と繋げて理解することができるようになった。それで少年院を出て家に帰った後も、僕は毎日3時間コミュニティーセンターで(ピアノの)練習を続けた。得たものを活かして、なにかを達成してやる!って燃えてたんだ。10年はかかるだろうと考えてたんだけどね。しかし、この「シンデレラ少年」には半年しか要らなかったのさ。

PB:ははっ!

JB:ある日、近所の体育館を通り抜ける時に若い奴らが音楽をやってるのを見かけた。当時ストリート・パンクみたいなことをやってた自分は、「俺たちの講堂でなにやってやがる」って言いに行った。もちろん自分のじゃないんだけど、当時は縄張りとかがあって、自分のモノって思ってたわけさ。で、彼らも俺が地元のギャング・リーダーだって知ってるから、なにも返事しない。もちろん誰も怪我をさせるつもりはなかったんだけど、そこで俺はピアノにナイフを突き立てて、それで「このバンドのリーダーが俺だ」って伝えたわけさ。誰も反論する奴はいない。だって、みんな11〜13歳と、 自分よりもかなり若かったからね。当時のラテン音楽で最若のバンドが生まれたってわけさ。

PB:あはは!ちなみに、ジョー自身は何歳だったの?

JB:えーっと、たしか18歳か19歳だったはず。少年院から出てきたばかりだったから。それ以前に音楽の試行錯誤を一緒に続けてきた仲間たちはその時点ではもうてんでんばらばらになってた。みんなは俺に未来があるってことを信じなくなっていたり、それぞれに(自分の少年院のような)大敗北を経験していたしね。シーンはかなり淀んでいた。貧困に満ちた環境で育っている故の、麻薬や警察とのトラブルなどを抱えていて、グループをどうにか続けようとしても絶えずなにかが立ちはだかってたんだ。そんな時に、まだ悪びれてない若い連中を見つけた、ってわけなんだ。幸運にも、彼らのやりたいことを自分が教えてやることができた。もちろん当初はその先どうなるかわからないし、彼らもそこにはちゃんと同意した。だけど大変だったのは、彼らがかなり若かったから、毎晩(スラム街の中を)エスコートして家まで帰してやることだった。もちろん彼らの母親たちも俺の経歴を知っていて、俺と一緒に演奏させたがらなかったんだ。だから、「ジョー・バターンは変わったんだ」ってことと、これからは音楽の目標のために身を割いて闘うんだ、って説得しなくちゃいけなかった。それで、それから半年間、地元のみんなは俺をじっと観察したんだ。3時間のリハーサルを週に5日、ずっと6ヶ月間続けた。そしてこのシンデレラ物語によると、その次の6ヶ月間で僕たちは、ファニア・レコードによって録音され、「Gypsy Woman」のアルバムを完成させるに至ったんだ。当初はもちろんバンドの歌い手は自分ではなくて、他の奴がリード・ヴォーカルだった。でも、彼の歌はひどく訛りが強かった。きっちり発音したほうがいいって俺が言うと怒り出した。「そんなになんでもよく知ってると言うなら、お前が歌ってみろ!」ってね。「それじゃあ見とけ」って歌って見せたんだけど、歌い終えたらみんなじっと俺を見てる。バンドが「ジョー、そのまま歌えよ」って言うんだ。結局それ以来、ずっと歌い続けてきたってわけさ。

PB:へぇ〜!

JB:そうやって踏み込んだ音楽の世界だったんだけど、そこからまた今度は「歌手」としての猛特訓が始まった。アーティストとしての知名度も上昇し始めてた矢先にバンドのリード・ヴォーカルに転向したんだからね。でもその頃から自分で歌を作曲もするようにもなった。そして僕らが演奏するクラブや会場に必ずやって来る「追っかけ」も現れだした。実は僕たちがトライステイト(三州:ここではニューヨーク州・ニュージャージー州・コネチカット州の主に沿岸都市部の総称、場合によってはフィラデルフィアを含むペンシルヴァニア州東部がコネチカットの代りに含まれる)の「ジャクソン5」だったんだ。英語の歌をラテンのビートに乗せて、他に誰もやってない音で登場したから、真新しかったんだろうね。

PB:なるほど。

JB:そうしたことによって、白人のみならず、あらゆる人種がラテン音楽の文化に触れられるようになったんだ。もう聴いても「歌の意味がわからない」ことはないからね。そしてそのスタイルは今また蘇りつつあるというわけ。自分は本当に、何度も祝福を受け続けてるよ。世界を巡って見てみると、新しいファンたちは新世代の若いファンたちなんだから。どこからこの音楽がやってきたのかってみんな訊いてくる、「50年前からずっとあるぜ」って教えてやると目をまんまるくする。ステージ上の俺の姿を見ても、50年前にその音楽を始めた同一人物だって信じられないらしい。南アメリカに行った時も、飛行機を降りると「ジョー・バターンはどこだ?」って聞かれたよ。俺が本人だって信じられない様子だった。「俺がジョー・バターンだ」って言うと、「あんたが?いや、違うだろ」ってね(笑)「あんたはジョーの息子さんじゃないのか?ジョー・バターンは最低でも90歳ぐらいで、杖でもついてるはずだ」って言われた。挙げ句の果てには、本人だという証明に歌を歌わされたよ(笑)歌ったら「よし、本人だ。入国させてやれ」ってね。カリフォルニアでも同じようなことがあった。メキシコ人たちの間では「ジョー・バターンはとうの昔に死んでる」ってというのは定説だったらしい。俺がホンモノかどうかを何人もの男たちが検証しにやってきたんだ。ずいぶん長いあいだ音楽から離れていたから、ラルフィ・パガーン(訳注:ジョー・バターンの盟友でもあったラテン・ソウル歌手)と同じように俺も死んだと思われていたらしい。彼らはリハーサル中、クローゼットの中に隠れてて、俺が歌い出すと飛び出してきた。「生きてたんだ!本当にジョー・バターンだ!」って言いながらね。だから、ここ25年ほども、ずっとシンデレラ夢物語が続いてるような感じだね。カリフォルニアや世界中でアリーナ級のライブを今でも続けていて、やっと正当な評価を勝ち取ったと感じてているよ。本来ならば何十年も前の段階であって然るべき賞賛だったんだけど!

PB:そうだよね。

JB:音楽業界の構造上、レコード会社を相手に大変な苦戦を強いられたんだ。現に、ファニア・レコードを後にしたのは自分が最初のアーティストだった。正当な報酬をもらっていないと感じていたからね。それで結局は自分でゲットー・レコードを始めたんだ。その後だって、世界でナンバー・ワンのダンス・ミュージック・レーベル、サルソウルを自分で始めた。それにとどまらず、今度は世界初のラップ曲の一つをリリースするに至ったんだ。それが自分を世界的なアーティストとして決定的に認知させたと思うよ。「この男は一体、他にもなにをやってきたんだ!?」って、今じゃグーグルの検索で出てくるけど、ありとあらゆるジャンルを超えて活動してきたことを知れば、「『ラテン』の棚には置けないし、『ブラック・ミュージック』でも無理がある。そうすると『ワールド・ミュージック』だろうか」ってなる。世界中どこへ行っても、そこでまた誰かに「うちの国にも来てくれ」ってお願いされるからね。まさに夢物語だよ、ずっと今日まで。中国にも間もなく行くし、そのしばらく後は日本だしね!

PB:楽しみにしてるよ!ちなみに、さっき言ってた初期のラップ曲って「Rap-O Clap-O」のことだよね?

JB:そうそう。

PB:それは何年のこと?

JB:1979年だよ。

PB:ってことは、本当にラップが生まれたばかりの時期だよね。

JB:その通り。先を越されたバンドはファットバックとシュガーヒル・ギャングだけ。

PB:そうなんだ!

JB:それだって実際はシュガーヒル・ギャングよりずっと前に録音していたんだけど、誰も俺の言うことを聞いてくれなかったのさ。レコード会社の事務所のヤツらが「なんだよジョー、もう歌は唄わないのか?なんだこのクソみたいな音楽は?」なんて言うもんで。「今までとは違う、新しい音楽さ!」って言って説得しても誰も聞いてくれない。シュガーヒル・ギャングのレコードが出てきてからさ、みんながやっと考えを変えたのは。シュガーヒル・ギャングのレコードが出たあと、ヤツらは逆に俺を探しにやって来た。「ジョー、あのラップの曲どこだ?」ってさ。

PB:へぇ!

JB:そしてその直後にはニューヨークの有名DJ、ラリー・レヴァンが曲を気に入ってかけてくれた。その結果、発売後一週間で2万枚がディスコでの販売だけで売れたんだ。まさに歴史が塗り替えられた瞬間だったよ。

そもそもラテン音楽を救ったのは実はブーガルーだったのさ。ブーガルーが流行るまでラテン音楽は史上最悪の低迷期にあったからね。だからほんの3、4年間流行ったブーガルーであるけれど、その後の状況を良くしたのさ。

PB:同じく(1967年に)カーティス・メイフィールド作曲の「Gypsy Woman」をラテン調でカバーしようと思い立った時も、当時は全く無かった斬新なスタイルだったわけ?似たようなことを試したアーティストは他に誰もいなかったの?

JB:それがね、隠れた事実が・・・。当時、お互いに知らなかったんだけど、スモーキー・ロビンソンはずっと今までそういう(ラテン調の)演奏をしていたんだ。彼のメアリー・ウェルズとの曲も、彼自身が唄う曲も、ビートがみんなチャチャチャなんだ。そうだろ? 

PB:なるほど。

JB:けれどホーンは入っていたけど、カウベルとコンガの表現の仕方を知らなかった。その後に、モータウンがテンプテーションズの曲でも、ラテン楽器を取り入れ始めていたけど、俺はもうもっと前からやっていた。俺が何をしてたかったっていうと、新たなフレイヴァーさ。俺の声じゃないぜ。俺はそんなに素晴らしい歌手じゃない。そのかわり俺はストリートのシンガーで、みんなにもたらしてきたものは、すなわち「だれもが俺を模倣できる」っということ。それが俺にヒットを与えてきた。「あれなら俺にだってできる、私にだってできる」ってね。でもみんなそう言う割に、だれもやってないんだ。ジョー・バターンしかやってない音楽だったから、値打ちがついたというわけさ。

PB:ははぁ。 

JB:エクトル・ラボーたちの演奏はパーティーではとてもいい感じをだしていたけど、別のスタイルだった。ジョー・クーバは「Bang Bang」で大きなヒットを出してたし、そのもっと前にはレイ・バレットの「El Watusi」があった。そういう初期のものも存在していたけど、俺みたいな歌詞の使い方はしてなかった。俺の歌がこうして50年間生き続けたのには、そういう理由もあるのさ。メロディーと詩の重なりが物語を生む。そうするとその物語は聴き手が持って帰れるものになる。曲のフックだけが耳に残るのとは違ってね。

PB:なるほど。さっきの話しのひとつのポイントが「彼にできるなら自分にもできる」と思われることの重要性についてだったけど、ジョーの有名な曲のひとつに「Ordinary Guy」っていうのがあるよね?その曲でもそういうことを表現してるの?

JB:はは、その曲は9通りぐらい、何度も録音してね。最初はバラードだったんだけど、ニューヨーク中の人たちが恋をした歌だった。特にファニア・レコードの幹部も気に入って、彼がブロードウェーのシンガーたちを起用してコーラス録りをして、それからハロルド・ウィーラー(指揮者・編曲家)にストリングズを入れてもらってヒットになった。その後には同じ曲をスペイン語のマンボとしてもやったし、チャチャチャとしてだってやった。そうこうしてるうちに、ある考えが浮かんだんだ。みんなその頃は、俺がラティーノだということをあまり重要視してなかった。スペイン語を話すし、それは俺の育った環境からで・・・ラティーノたちと一緒に育ったからね。でも同時に俺はフィリピン系でもあるし、ブラックでもある。それを再確認させてやらないと、って思った。そこで「Afrofilipino」という言葉を思いついて、「よし、いっそアルバムのタイトルにしよう」って決めた。そろそろフィリピン人たちが堂々と立ち上がってもいいじゃないか、って。俺の属していた当時の文化は「100%単一人種でない、つまりミックス(混血)なら、ファミリーの一員ではない」っていうものだった。今の時代はそれはもう変わったけどね。とにかく、一種の意思表明ということで、以前の曲(「Ordinary Guy」)に別のメロディーをのせて、歌詞を「Afrofilipino」に挿し替えてみたら、って考えた。「Afrofilipino」、それはまさしく自分だから。そうやって録音した曲はある種のアンダーグラウンド・ヒットになった。日本やイギリスで、そしてもちろんフィリピンでも。世界中でまだ聴いてない人が多いのは、俺がその曲を録音したってことを知らない人たちも沢山いるから。でも、1973年の録音だよ。フィリピンにへ演奏で行った時、俺は大笑いしてやったんだ。「俺のことを認識するまでおよそ50年もかかったのか!?」ってね。彼らは恥じてたよ。フィリピーノの俺が活躍してるのに、(フィリピン人は)だれも俺に注目してなかったんだから。それ以来もう2、3回行ったけど、自分がある種の基盤を築いたと感じている。カリフォルニアでもニューヨークでも、いまやフィリピーノたちがどんどん活躍してるから。だからって、彼らにできることはまだまだ沢山あると思うけど、ともかく「自分はフィリピーノだ」って公言したアーティストは自分が最初だったってことには誇りを感じている。今だって「フィリピン人だ」って言わずに活動しいてるアーティストも多いから。フィリピンには才能あるアーティストも沢山いるけど、活動の範囲はなかなか地元から離れていかないんだ。たぶん俺の知名度もフィリピンよりも日本の方が高いぐらいだ。もちろん地理的な要因だったりといろいろあるから、「彼らが悪い」って言ってるわけじゃないけどね。

PB:実は1970年代には、日本のディスコで演奏していた一流バンドはみんなフィリピン人のバンドだったらしいんだ。僕が初めて東京にやってきた頃のことなんだけどね。

JB:本当に?ちなみにピーターはどこの出身?

PB:イギリスのロンドンだよ。

JB:そうだったんだ。

PB:ごめん、ちょっと話がずれちゃったね。ところで、1960年代後半から70年代の初頭までブーガルーは大流行りだったけど、その後すぐに廃れちゃったよね。なぜ流行らなくなったのかは諸説があるみたいだけど、ジョー自身はそこをどう捉えてるの?

JB:そうだね、理由はいろいろだけど、まずは、みんなこぞってブーガルーをやりだしたけど、ほとんどの連中が準備不足でちゃんと完成されていなかった。流行りモノの「バブルガム音楽」だな、って俺だって認めざるを得なかった。みんな「靴にこぼれたライス&ビーンズ、ハハハ」とかそういう陳腐なチャントを繰り返すだけで、それを「ブーガルー」と呼んでいたんだ。だから俺は即座に自分を「ブーガルー」ではなく「ラテン・ソウル」のアーティストと名乗ることにした。その結果(流行りとは無関係に)その後何十年にも渡って好かれ続けたわけ。自分でも天才的なアイディアだったと思っている。「ブーガルー」だけでなく「ラテン・ソウル」のアーティストとしてね。聴衆にとっては「ブーガルー」より「ラテン・ソウル」のほうがはるかに重要だったから。だって「ソウル」をけなすわけにはいかないし、同じく「ラテン」だって見下せるモノじゃない。となると、ちゃんと聴いてみないと、ってなるわけさ。そうやって活動しているうちに「ラテン・ソウルの王者」っていう称号がつきだして、それもまた悪くない愛称だった。とにかく話を戻すと、レコード会社がみんなで(ブーガルー)を潰しにかかったのが、流行らなくなった本当の理由さ。理由は、古参のバンドリーダーたちの多くが仕事にありつけてなかったからさ。「御三家」のプエンテ、マチート、ロドリゲスらがみんな不満を持っていた。なぜならブーガルーのバンドのほうが出演料も安いから、出番を横取りされて、ブッキング・エイジェントはもちろん不満なわけさ。そんな状況だったから(レコード会社は)彼らに再び仕事を与えようと目論んだのさ。俺がちょうどファニア・レコード相手に大きな論争を始めたことも物事を加速させたと思う。俺はファニアを去って、契約解除にあたり彼らはジョー・バターンの音楽を一つ残らずラジオ番組から消し去ったのさ。

PB:あっちゃー。

JB:でも自分と他の「ブーガルー」のアーティストたちの大きな違いは、歌詞の使い方だった。それに俺は、彼らの言う「ブーガルー」だけでなくて、「ラテン・ソウル」そしてバラードもやっていた。他のアーティストたちがやっていなかったことだったし、それが聴衆に好まれた。それだけじゃない、俺はマンボだってチャチャチャだってやっていたんだ。つまり、ラテン音楽のあらゆる領域さ。でも逆にいうならば、俺の音楽をラジオから取り除いた後には、他のブーガルー・バンドを番組から抹消するのも、そして、レコード会社が考え出した「サルサ」っていう呼び方にすり替えるのも簡単だった。当時「サルサ」なんてものはなかった。あったのはマンボとチャチャチャだけ。それはみんな知ってる。

PB:なるほどね。

JB:とにかく、そのうちその「サルサ」がラジオを席巻するようになって、(ブーガルーの)音楽は死んでしまった。ブーガルーのバンドは録音されてなくなった。でも、そうなったからといって、当時のブーガルー・バンドたちがなにか違うことを始めたかというと、フックを中心に構成された、以前と同じような曲しかやらなかった。つまり、歌詞に重点を置いた歌は出てこなかった。だから、エクトル・ラボーたちのようにスペイン語で物語を表現するような歌い手たちとは、まともに太刀打ちできなかった。その後に、故郷の国々に誇りを持とうっていうラティーノ・アイデンティティーの波が国中に広がって、みんなサルサをサウンド・トラックのように聴いていたけど、そもそもラテン音楽を救ったのは実はブーガルーだったのさ。ブーガルーが流行るまでラテン音楽は史上最悪の低迷期にあったからね。だからほんの3、4年間流行ったブーガルーであるけれど、その後の状況を良くしたのさ。俺みたいなアーティストはそれ以降もちゃんと道を見つけて仕事を続けたし、俺の場合だとディスコ時代も、ラップも、ハスラーというかフリー・スタイルの時代にだって、ずっと絶えず活動を続けてきた。けれど、他のバンドリーダーたちは、そんなふうにはキャリアを継続できなかった。なぜかというと、彼らの多くはバンドの顔として歌い手を起用したけど、その歌い手が去るとバンドにはなにも残らなかった。ジョー・バターンの場合だと、俺自身が歌い手でありバンドリーダーでもあった。自分自身の指令にしか従わないからね。だからジョー・バターンがミスをしたら、災いはそのままジョー・バターンに直接降りかかる。他の誰かに迷惑をかけるわけじゃない。それがひとつの大きな違いだった。レコード会社が俺をラジオ番組から消して商業的にも生計的にも暗殺しようとしたときだって、そのおかげで自分はサルソウルを創立して、新たなキャリアを築くことができた。もちろん彼らはひどく嫉妬したけどね。彼らは、ミュージシャンたちがビジネスの分野に立ち入るのを嫌がって、阻止しようとする。「あんたたちは決められたポジションに居続けろ」という具合にね。彼ら(レコード会社)がそれまで何十年も音楽業界をコントロールできていたのは、たかがそれだけの理由さ。

PB:ははぁ。

JB:それで、「We Like It Like That」っていうドキュメンタリー映画が作られて、そのおかげでウエストサイド物語の人たちから電話があったし、これからまたジョー・バターンの活躍が増えそうだよ。今取り掛かってるプロジェクトは、自分の自伝を完成させることなんだ。ストリートで生き抜いた50年、ってね。音楽業界を相手に。

PB:へぇ、本を書いてるっていう意味?

JB:そうだよ。新しいアルバムも制作中で、本の出版と同時に出すつもりなんだ。日本にも持って来たかったんだけど、間に合わないんじゃないかな。クリスマス頃の出版を目指してるから。でもすごく興奮してるんだ、本もアルバムも両方ね。

聴き取り・翻訳:江頭一晃

協力:宮田信(MUSIC CAMP, Inc.)

【ジョー・バターン来日スケジュール】

10月22日(土)LIVE MAGIC! 出演 チケット好評発売中! 10月24日(月)晴れたら空に豆まいて10周年記念 SOLD OUT

ジョー・バターン来日公演オフィシャルサイト:http://www.m-camp.net/JB2016.html

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